クランベリーに溺れる

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大概、大体、普遍的に、「親しい人間」というのは自分自身のことを考えてくれていないことのほうが多い。これは、こんなことを言うのは、期待を裏切られた訳でも、コミュニケーションに絶望した訳でもなく、現在僕自身が定義できることの1つだからだ。

けれど、「たまに」飲み物を買ってきてくれる、飯に誘ってくれる、ボイスメッセージをくれる、ビデオ通話をかけてきてくれる、インターホンを押してくれる、言葉をくれる、愛してくれる、所為で我々は揺れる。劣等感が心地よかったことはない、彼らを拒絶できない。オレも時々、愛してみる。前にも言ったけど断片的な文章になってしまうのは、穴を補う教養が僕にないからだ。

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リアルってのは基本的にいつも冷たくて、文章で絶望することも多々ある。というかいつも絶望の切り口は文章だ。これを読んだときはもうひどく悲しく辛かった。絶望が人間性みたいなものを肥やすなら、一刻も早く脳や脊髄を切り離して電解液が見せる夢の中で好きな子と公園のベンチで座ってたい。この人の文章が好きすぎるな。

人生がすべて"タイミング"なら誰も感傷には浸らない。